見えているのか/形にならない現実と真実が
22日、サイキシミンのレコ発ライブが福岡のブードゥーラウンジで企画された。ただ、オミクロン株の流行もあって現地での演奏は断念せざるを得ず、当日は生中継という形での参加となった。豪さん、PhotoJ、勇くんと一緒に20分のステージを記録した。いつもながら急過ぎる展開にも関わらず、格好良いライブ映像になったと思う。
レコ発を断念するサイキシミン
24日、目覚めるとロシアがウクライナに侵攻してて、情報を整理しているうちに、先日はじめて聞いたサイキシミンの新曲を思い出した。今まで使ってなかった言い回しや単語が多用されてる、明らかにバンドの転換期を予感させる曲だった。改めて聞いてみたら撮影時とは印象が違ったので、思わずLINEのグループに投げると、大谷さんから「公開しませんか?」と返ってきた。それから今の気分を少しだけ乗せた編集を施して、YouTubeにアップした。
『見えないものが見えたなら』
作者の意図を飛び越えて、その作品に別の意味が宿ることがある。まさにサイキシミンの『街』がそうだ。ウクライナ侵攻とは全く関係のないところで作られた『見えないものが見えたなら』も、この日の僕にとっては決して無関係には思えなかった。物事の本質を射抜いているものだけが、この普遍性を得ることができると思う。
例えば、*後藤さんとカツオさんの長年の活動が『ターンズ』に掲載されたこと、*中村さんがオーナーの「さんかくワサビ」にダイノジがやって来たこと、それらは彼らだけの感動で、誰のものでもない。たった20分のライブのために、友人たちを巻き込み、ライブハウスの仲間と一夜限りの馬鹿騒ぎを演じるサイキシミンの感動も、彼らだけのものだ。その感動は、他人の物差しでは測れない。個人の経験にのみ紐づいた感動だから。
『ターンズ』には後藤、河野に加えて中村と平井も「地域おこし協力隊」の枠で掲載された
あえて断言すると、彼らの活動には、一切の邪な損得勘定が無いのを僕は知っている。だから、お金や名誉に還元されない自分だけのカタルシスを得ることができるんじゃないか。「物事の本質を射抜いた普遍性」とは、そういう透明な精神性のことでもある。
遠い国の出来事と、この街の出来事は同じだ。隣の友人と、少しでも楽しく暮らすために、自分にできることだけを頑張りたい。それ以外は必要ないから、余計なことは考えなくても良いのかもしれないと思った。
*『ターンズ』は、後藤と河野がライフワーク的に行って来た活動の分野ではもっとも権威ある雑誌。
*「ダイノジ」は、中村が青春時代を捧げた、彼女が佐伯市に移住するキッカケにもなったお笑いコンビ。
written by 工藤智之:又の名を「TMOVE」、或いは「アニ」。慢性的な夜型のため、早朝からの仕事が3日続いた事により体調を崩す。回復の遅さに心体の衰えを感じる89年生。仕事をするには頭が冴えず、このコラムを書き連ねた。病原体検査はセーフだったのでご安心ください。